毎晩、玄関に小さなスーツケースを置いて眠った。
いつ連行されてもいいように。

1936年。ソ連。
スターリンの機関紙が、ショスタコーヴィチを名指しで批判した。
「この音楽は、体制への反逆だ」
その年だけで、70万人以上が死刑判決を受けた時代の話だ。

友人が消えた。
親族が処刑された。
次は自分かもしれない。
彼は荷物を、小さなスーツケースひとつにまとめた。
夜ごと、玄関のそばに置いて眠った。
明け方に秘密警察が来ても、すぐ出られるように。
それが毎晩の習慣になった。

生き残る道は、ひとつしかなかった。
体制が喜ぶ曲を書くこと。
1937年。「交響曲第5番」が完成した。
表向きは、勝利の音楽だった。体制を称える、晴れやかな交響曲。
しかし、終楽章の「歓喜」は、本当に歓喜だったのか。




